会長挨拶 | 歯科医師会の歴史 | 委員会組織 | 役員紹介 | 歴代会長 |
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対外・委託事業 | 参画協議会 | 大規模災害組織図 | 財務報告 |
大正から昭和初期 | 大正5年4月、宮崎県歯科医師会が設立(会員数10名)し、都城から富田保助、高橋武二が参加。昭和16年9月宮崎県歯科医師会都城支部として発足した。 |
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昭和20年代 社団法人 都城市・北諸県郡 歯科医師会創設期 |
戦後処理の中、昭和22年11月に日本歯科医師会が社団法人として再出発し、都城でも社団法人都城市北諸県郡歯科医師会の名称で会が創設され、会員数28名のもと新しい活動が始まる。 |
昭和30年代 高度成長期 |
高度成長期の中、歯科医療の環境も激変し、歯科医師不足のため当時全国7校だった歯科大学は13校に増加した。 都城では会員数は35名となり、昭和34年には当時市郡歯科医師会館としては小倉・久留米についで九州3番目の会館が竣工され、盛大な落成式が行われる。 当時から、歯の女王コンテスト、6月の口腔衛生週間行事、学術講演会などが盛んに行われた。 |
昭和40年代 歯学大学増設と 歯科医療発展期 |
高度成長期は続き、歯科大学は全国で29校まで増加。エアータービンや歯科用レントゲン・パノラマなどの機材がより一般的となる。 口腔衛生週間行事や学術講演会や厚生事業としてのレクレーション等は会員の増加とともにさらに充実する。 |
昭和50年代 歯科医療全盛期 (バブル期) |
バブル全盛期を迎え、歯科医療費も高い伸び率を示した。 会員数も90名を超え、公衆衛生活動がさらに活発化し、昭和56年からは歯科休日急患診療事業が始まる。 |
昭和60年〜 平成10年代 歯科医療充実期 |
昭和62年11月、本会創立40周年祝賀会が盛大に行われた。このころから委託事業の拡大など事業が複雑化し、本会でも常任委員会制を導入して組織のさらなる充実をはかる。 また慢性的な歯科衛生士不足に対応するため、本会の協力のもと宮崎カリタス学院都城歯科衛生士専門学校が設立される。 さらに地域との共生を目標として平成8年には第1回文化講演会(櫻井よしこ氏、ジャーナリスト)を行い、多くの市民が参加した。 |
平成10年代 歯科医療の転換期 |
平成10年5月、本会創立50周年祝賀会を多くの来賓を招いて盛大に開催され、50周年記念誌を作成するとともに、第2回文化講演会(今井通子氏、医師、登山家)を行う。 さらに平成13年11月には第3回文化講演会(山下泰裕氏・柔道家)が行われ、多くの市民でにぎわう。 このころから国民の高齢化が深刻となり、平成12年には超高齢化社会に備えた介護保険制度が導入され、本会でも在宅での口腔ケアや口腔リハなどへの対応が検討される。 平成19年6月には本会創立60周年祝賀会が会員家族も参加のもと、温かな雰囲気で行われる。 |
平成20年代 歯科医療の さらなる発展期 |
都城歯科衛生士専門学校の閉校と歯科衛生士教育の3年制移行の中、平成20年に都城デンタルコアカレッジが設立。 都城歯科医師会は、設立時より、講師派遣、実習医院などで協力している。 平成23年1月には都城医療センターに歯科口腔外科センターが設置され、医科歯科連携の体制が整う。 また国の法人改革制度のため平成25年4月より、名称を「一般社団法人 都城歯科医師会」と変更した。 平成25年度からは新たに口腔衛生普及事業、平成27年からはフッ化物洗口事業に取り組んでいる。 歯科医療の多様性はますます広がり、より広い視野に立った歯科医師会活動が要求される時代となる。 |
平成から令和へ 新たな感染症がもたらした社会 |
令和2年1月から戦後類を見ない感染症の拡大に見舞われ、外出の自粛・制限、外出時のマスク着用、手指消毒の徹底など生活が一変する。 これに伴い、歯科診療所では、来院者数の減少、感染対策用品が入手困難になり対策に追われるが、感染対策の結果、歯科医療を介しての感染拡大、クラスター発生の報告は殆どない。 都城歯科医師会においても、今まで「お口の健康フェスティバル」、無料健診など口腔衛生に対する啓発活動を積極的に取り組んできたが次々と中止を余儀なくされ、事業再開は令和5年5月まで待たれる事となる。 また、世界情勢の変化に伴い金属の価格が高騰、歯科医療においても、材料費の高騰を招き医療費を圧迫、金属に変わる代用材料の使用が急務となる。 これにより、歯科診療所では歯科医療は勿論、院内感染対策の大きな転換期を迎えた。 |